歴史街道

つるやがある久美浜・小天橋には歴史を感じる名所が存在しています。
散歩ついでにぶらっと探索してみませんか?

蛭児神社

突堤の先端にある蛭児神社は日間宮(ひまみや)とも日留居(ひるゐ)大明神ともいわれて、蛭児はエビスとは読まないでヒルコ神社という。
日間(ヒマ)や蛭(ヒル)のヒが、水辺において望まれる太陽を意味することを表しています。もと西の四神が獄(ジジラ山)に祭られていたのを洲の先端に奉納したのだという。

江戸時代には湊宮には廻船問屋がたくさんあり有志が奉納した千石船が三社丸というそうだ。その三社とは蛭児神社、日御前神社(出雲)大川神社(丹後加佐郡)から勧請したものという。 蛭児(ヒルコ)が太陽の子という意味になるのは蛭子神社の祭神が火遠理命(ほをりのみこと)であることからも知られている。ホヲリノ命はニニギノの命の第三子で別命を天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)といい海上の日の御子の意味がある。 千石船の模型が(三社丸)が蛭子神社の石段を上った左側にある。昔は1月1日に引きずりながら歌をうたって祝ったそうで、船祝といわれていました。

古事記の中に、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の物語がある。
ホオリノの命が山から出てきて、兄の海幸彦であるホオリノの命の釣り針を持って海に出るが、釣り針を失い、それを探し求めて水波みに来た海神の娘 豊玉姫ち結婚し、三年の間ワタツミの国で暮らしたという物語。そのホヲリノ命と豊玉姫夫妻を祭神としているのが、ここ日間宮、蛭児神社なのである。

飢餓塚

湊宮の五軒家は江戸時代廻船業のほかに両替商や酒造業を行っていた。その華かなりし頃時は徳川文化の退廃期、打ち続く天変地異に五穀あげて実らず、全国的に襲った飢饉は当地方も決して例外ではあり得なかった。
幕府は救急の術を知らず各地の藩主もまた頼むにたらず、ここに五軒家は坐視するのにしのびず、その全倉庫を開いて飢民をうるほすべく決心した。
「湊へ行けばお粥が食べられる。米のお粥が・・・・」“米のおかゆ”という言葉がどれ程魅力をもっていたか。
いまは、ただ一杯のお粥を得ようと悲しい決心をした人々の群れが、郡内は勿論、うわさに聞いた竹野、中、丹後但馬一円から集まり、葛野から湊への松原一本道は人で黒く続いたという。
遠い道をどうして湊まで達し得られよう。飢えに飢え、疲れに疲れた人々は、まるで朽木のように路傍に倒れていった。

飢餓塚イメージ

碑文に「平沙或海浜所沙上曝骨寸骨雖見之拾聚以乞納此墓者也」

砂の上やあるいは海水のあらう
海辺に散らばった、たくさんの白骨を、
ほんの小さな骨まで拾い集めて
この墓におさめ供養をした。

その惨状は、まざまざと碑面ににじみ出ている。
遂に五軒家の当主達の提議となり、医師、福田、山根、高田三氏の手により非運に倒れた多くの人々を一ヶ所に葬った。「群霊曝骨墓」文化六己年四月がそれである。

大石塚

小天橋「海の家」正面道を隔てて海岸側にあります。地上七尺もある自然石、村の人たちは“おおせき塔”と呼んでいます。これはその年、大荒れが度々あって先はどうなるだろうと人心が怯えている時、五軒家(しもや)の当主小西伯煕さんが仏に祈願して建立されたものと伝えられている。

大石塚イメージ

碑文は次の通りである。

向って右側面
享和元辛酉歳夏五月
謹建之千邑東長沙門
男 伯煕
向って左側面 丹後日村湊宮
俗称 小西丈右衛門


この二つの碑が道路工事で砂に埋まり、草木の根が張って荒れ放題ななっているので老人会会員の有志によって倒れた石碑をおこし清掃をしました。

飢餓塚に供物さびれて 花とべら 浜昼顔残して塚の清掃すむ 花とべら荒るるにまかせ 海難碑

お盆に初めてお参りしたところ既にきれいなお花がたくさん供えてありました。

久美浜湾の大明神岬

久美浜湾には長く突き出している大明神岬がある。
突端は四道将軍の中の1人 丹波道主命(たにわらのちぬしのみこと)の墓と言われ、他に数カ所古墳がある。古墳の中には珍しい「積石塚古墳」があり、その根元に当たるところにある 「堀切」という所は、他よりずーっと低くなっている。ここは、湊から久美浜へ船で行くのに、大明神を廻ると遠くなるので近回りするために五軒家が掘りかけたらしいが予想よりも難工事になったため途中でやめた所にあたるらしい。 本格的な調査は行われていないため、詳しい事がわかっていません。そこにまつられたかつての権力者が一体どういう人たちだったのか神秘的です。だれか調査してほしいものだ。

残念ながら大明神へは船でしか行けない。今は漁をする人々の目印で避難場所になっている。

湊宮「五軒家」について

湊宮の五軒家とは、
本家 本座家 小西 林蔵
分家 新シ家 小西 与一右衛門
分家 下 家 小西 与右衛門
木下 木 下 木下 長左衛門
五宝 五 宝 五宝 重右衛門

この五軒家で湊宮の海岸沿いの中心部に居を構えていた。いずれも間口20間~30間、奥行約一町の大きなもので、本宅、離れ座敷、隠居、土蔵、納屋、門屋など三十余棟の建物が建ち並んでいたという。 この五軒家の中で代表的な人物が小西伯煕宗雄であろう。
小西家は戦国時代の武将 小西隠岐守信より始まるという、天正のころ一色家に従い熊野郡日村丘砦に松倉佐渡守康之によって日村砦が落城するや二君に仕えずと武士をすて野に下り湊宮に住みついたものと思われる。
木下長左衛門も寛永年間に死んでいるので小西家と同時代に上着したと思われるが家紋が蔭桔梗であるところから明智光秀の家臣の落人でないかともいわれている。(寺村龍太郎氏「郷土資料」から) また山本三省氏談によると、徳川幕府の儒官であり大学頭であった柴野栗山が城崎に遊んだ時、わざわざ久美浜湾に船を浮べて五軒家の当主たちと共に詩歌に興じたという。 文人であり、事業家であり、進取の気象に富んでいた五軒家の当主たちは、五軒家に依存する村人との身分関係をもつくりながら、親方、小方の関係を基礎に湊宮を本拠として挑戦、満州方面に出航し貿易によって当時巨万の富を築いたものであろう。


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